
遠き時代より、私たちの故郷を見守り続ける
千手観音像
いまから90年ほど前、ある霊感の強い方が、たまたま地蔵堂管理人宅にやってきました。その際、地蔵堂裏の地面を指さし、
「ここを掘れ。何かある。」
といったそうです。
先代の地蔵堂管理人が、その地を掘り起こしてみましたが、なにも出てきません。
そこで、掘り起こした土を「ふるい」にかけたところ、小さな黒い石のようなものが見つかりました。よく見ると、それは小さな千手観音像でした。
それ以来、その千手観音像は、どのような素性のものかわからないまま、地蔵堂管理人宅の家宝として大切に祀られてきました。
その後、いまから40年ほど前、現 地蔵堂管理人の家内が、地元の歴史勉強会に参加するようになり、その勉強会の講師をされていた郷土歴史家の安本博先生(※)に、この千手観音像を見ていただいたそうです。
安本先生によれば、この千手観音像は、戦国時代の武士が身につけていたお守りではないか、とのことでした。
千手観音像は、地蔵堂管理人が物心ついた頃には既に管理人宅に祀ってありましたので、とくに、いままでは注視してきませんでした。
このたびのウェブサイトの作成にあたり、千手観音像を写真撮影し、その画像を拡大し、あらためて観察してみると、思っていたよりも緻密な彫に驚きを感じました。

千手観音像
(写真をクリックすると拡大します)

千手観音像の大きさ
全長は5cm弱
(写真をクリックすると拡大します)
ここ用宗の地は、戦国時代の古戦場跡でもあります。
地蔵尊の北側には、地元の皆様が「城山さん」と呼ぶ、標高70mほどの小高い丘陵があり、戦国時代には持舟城が築かれていました。
今川氏、武田氏そして徳川氏のなかで攻防戦が繰りひろげられ、数百人もの武士が、この地で尊い命を落としたといわれています。
地元でもその存在を知る方は少ないかと思いますが、用宗地蔵堂から県道静岡焼津線を西方向に100mほどいった先のアサヒ交通車庫の奥には、安らぎの場を見つけることができずにこの地をさまよっていた武士の霊魂を慰霊するための慰霊塔が、先代の地蔵堂管理人によって建立されています。

先代の地蔵堂管理人が建立した慰霊塔
(写真をクリックすると拡大します)
この用宗の歴史を考えますと、この千手観音像は、戦国時代の武士が身に着けていたお守りであったのではないか、という安本先生のお見立てには納得させられるものがあります。
私どもは、この千手観音像がいかなる歴史的価値を持ち、また、どれほどの皆様がこの千手観音像にご興味があるのか、さっぱりわかりません。
もし、ご要望があれば、千手観音像を7月24日のお地蔵さんのお祭り日にあわせて、ご覧いただけるようにしたいと思います。
ご要望ありましたら、問い合わせ先までメールにてご連絡くださるようお願いいたします。
また、このような千手観音像について、なにか情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、お手数ですが、問い合わせ先までメールにて情報をお寄せくだされば幸いです。
※安本博先生:郷土研究家
1914年 静岡市に生まれる
静岡県静岡師範学校専攻科卒
登呂遺跡の発見者
論文・著作多数
1987年没
・参考文献:「用宗町誌」 用宗町誌編集委員会 (昭和46年)